物理法則を知らない。

デュエルポケットモンスターマスターズ

読んだ本の紹介とか その17

 今晩は年始並みの冷え込みらしく、そういうわけで一足早いお正月です。あけましておめでとうございます。

 もう間もない年末年始は、職場で過ごすことが決まったので憂鬱でなりません。12月もシャチカツが捗りそうでなにより。

 

 ポケモン剣盾を購入したはいいものの、思ったより熱が湧いてこなかったので今日も元気に読書読書! 読んだ本の感想を書こうと思います。

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 『海のカナリア』(著:入間人間 初版:2019/09/10)

 

 前々から気にはなっていたのですが見送っていた作品。何かのついでに購入して、読んだのがさっき。綺麗な表紙絵と飾らない題名とに惹かれて選んだ一冊でした。

 帯にはこう書かれています。

――「この世界を壊したい」 彼女ならできる・・・はず――

 セカイ系か? とか思いながら読んで行きましたが、多分違ったと思います。

 

 読んだ感想としては、序盤は「一体何を読まされているんだ……?」と退屈さすら感じていました。というのも、設定が明かされないまま場面が飛んだりするので理解が追いつかないのですね。70ページと少しを読んだところでようやく「海野幸は多重人格者だった。」と思考の手掛かりが与えられます。「海野幸」は“うみの ゆき”と読んで、作品の舞台そのものである女子高生です。

 主人公「ぼく」(表紙絵の男性)とヒロイン「城ヶ崎」(表紙絵の少女)は「海野幸」が生み出した多重人格の一つ一つであり、彼らが内蔵された精神世界が作品の舞台となっているようでした。分かるか! 70ページの間置いてけぼり喰らったわ! と思いました。

 全体的に、書かれた意味が後の方で説明されたり、展開から「こうではないか?」と考えられたり、と逆立ちして読みたい作品です。読み終えてから考察の段階に入って初めて面白さが染み出てくる作品であり、読みながら「面白いなこれ」と思うことは中々難しいのではないでしょうか。

 文章の書き方についても、脱力し過ぎているというか、いまいち熱が感じ難くて個人的に好きではない文章でした。

 

 ここからは内容に関する考察を少し。

 まず読んだ段階だと謎が残されたまま終わるので「どういうこと?」と感じるところから始まります。

・女子高生としての「海野幸」の主人格とは?

・「城ヶ崎」君は何故世界を壊そうとしたのか?

・これが恋ってマジ? 歪み過ぎだろ……

 この三つを切り口にして考えていきました。

 「海野幸」の主人格について、作中でほぼ確定的に「城ヶ崎」=「海野幸」だと書かれているのですが、「城ヶ崎」はあくまで11歳という設定でした。作中では17歳、12歳、11歳の「海野幸」が確認できていますが、17歳の「海野幸」は現実世界の「ぼく」の肉体としてのみ書かれ、17歳verの人格は登場しません。本当にそうでしょうか? 一つ可能性を考えてみました。

・「城ヶ崎」=11歳ではなく17歳の「海野幸」説

 この説の苦しいところは、「城ヶ崎」は11歳の「海野幸」そのものであり、未来を知っているわけではなかった点。少なくとも11歳の「海野幸」は間違いなく「城ヶ崎」なのでしょう。ただ、「城ヶ崎」として17歳の「海野幸」が接触を図っていた可能性は捨てきれない。

 17歳「海野幸」の場合に説明できることは、世界を壊そうとした理由と、恋という設定について。

 何故「城ヶ崎」は精神世界を壊そうとしているのはさっぱり分からなかったので、星辰世界を壊すことで起こり得る事象を考えました。

・多重人格の崩壊

・予知能力の消失

 まあ、後者がメインでしょう。11歳の「海野幸」は、17歳の「海野幸」と精神世界で交流することで未来を伝聞し、予知する能力を有しています。精神世界が破壊されればこの能力も消失するものと考えられます。

 では予知能力が失われると何が起こり得るのか? 「ぼく」は「海野幸」を殺す理由がなくなるので、両名とも無事に未来へ進めたと思います(「ぼく」の“秘密”が「海野幸」へ向くかはさておき)。要するに、“「ぼく」が死ぬ”“「海野幸」が多重人格者になる”という過去を書き換えることが出来るわけです。

 17歳の「海野幸」は時折「ぼく」(を模した人格)へ身体の主導権を委ねる程度には「ぼく」へ未練があるように書かれているので、これが「海野幸」から「ぼく」へ対する“恋”であるなら、「城ヶ崎」の「この世界を壊したい」という行動原理を“「ぼく」が死んだ過去を変えるため”と説明することができるのではないでしょうか。

 ん? 書いていて思ったのですが、これ別に17歳「海野幸」である必要なくない? 11歳が「ぼく」に恋して過去を変えようとしたっていいじゃない。

 

 「ぼく」について考えたことは数点。

 精神世界の「海野幸」が名乗る「城ヶ崎」という名前。これは多分「ぼく」の本来の名前なのでしょうね。全てが「海野幸」の経験で構築される世界において、人との交流が浅い彼女の記憶に留まる名前といえば……それは「ぼく」の名前しかないでしょう。

 もう一つは現実世界の「ぼく」が犯した“秘密”について。殺し系であり、性犯罪系ではない、知れば後悔する程の悪。それは“人を殺して食べていた”のではないかなと思います。根拠は「ぼく」と「城ヶ崎」との焼肉のシーンだけになるのですが、裏を返すと「ぼく」がカニバリズムを犯した以外に焼肉シーンを書く理由が見つからないのですよね。

 最後は「ぼく」(精神世界)が17歳の「海野幸」の主人格ではないか? という可能性。結局最後は「ぼく」が現実世界で「海野幸」として生きていくことになるので、無難に行けば主人格なんだろうな、とは思うのですが。ただ、恋が書かれているならばドラマチックであって欲しいので、上記の“「ぼく」のために世界を壊す「海野幸」”説を推すことにします。

 

 以上『海のカナリア』についての感想&考察でした。

 登場人物の嘘、捻くれだとか、さり気無い描写の中に隠されたヒントとか、そういうのを暴いたり掘り起こしたりする楽しさ、面白さに突出した作品だと思います。

 これが夏の恋を書いた作品……? いや、やっぱり歪んでいる……。